生き返った死刑囚



 1870年、明治政府は斬首など従来の死刑執行方法に代わり絞首刑を制定した。最初に導入されたのが絞柱という懸垂式の処刑器具であった。この器具は死刑囚のうなじに縄をかけ、その縄の先に20貫(約75Kg)の重石を吊り下げて絞首する仕組みであった。

 器具の設計者は不明であるが、この処刑器具には欠陥があり、わずか2年しかつかわれず絞罪器械図式に変更された。これは場合によっては死刑執行者が蘇生するというものであった。理由として致命的な打撃を与えられなかったということもあるが、当時の処刑手順の定めでは「重石を架けて3分後に死相が現れてから縄を解く」というもので、心臓停止後5分間経過するまで執行を継続しなければ蘇生する可能性がある事が指摘されている。

 なお絞柱で処刑された死刑囚のうち3人が蘇生したことが記録されているが、処刑の経緯やその後の経緯について記録が現在に伝わるのが田中藤作に関するものが唯一である。

 石鐵県(愛媛県)久米郡北方村の農民・田中藤作(当時31歳)は、一揆の際に放火したとして1872年11月28日に松山高石垣の徒刑場で執行された。当時の慣習では死刑囚の遺骸は引き取り手がなければ腑分け(解剖)されることになっていたが、藤作は親族が引き取った。

 徒刑場から1里(約4Km)ほど運んだところで藤作の棺桶からうめき声が聞こえたため、蓋をあけたところ藤作が蘇生していた。藤作は村に生きて戻ってきたが、村人は石鐵県の聴訟課に蘇生の事実を届出、今後についての指示を仰いだ。だが県の役人は江戸時代の刑罰では死刑囚の身体を破壊するものであり、生き返ったなどといった前例があるわけでもなかった。そこで県では処刑を担当した役人3人の進退伺いとともに中央に対処方法の指示を仰いだ。

 中央政府から指示が届いたのは翌1873年9月であるが、その文章は「スデニ絞罪処刑後蘇生ス、マタ論ズベキナシ。直チニ本本籍ニ編入スベシ」というもので、生き返ったとしても既に法に従い刑罰としての執行は終わっているのだから、再び執行する理由はない、よって戸籍を回復させよというものであった。これは革命前のフランスでは絞首刑で稀に蘇生した死刑囚がいたが、この場合国王が赦免した事例があったことが参考とされた。なお県の役人については検死に問題なかったとして処罰なしとなった。

 なお、藤作は26年後の1898年まで生きたとされるが、4年後には死亡したという話もありいずれかははっきりしない。ただ藤作は一時的に仮死状態になった後遺症のためか、精彩を欠き小さな小屋で孤独な生活をしていたという。なお彼の墓は墓石がなかったため竹薮の中の何処かにあるという。

 この事件と同時期の1884年、イギリスでジョン・リーという死刑囚は、絞首台の落とし戸が3度も開かず停止されたという(原因は、落とし戸が湿気のために膨張し、重量がかかると戸が開かなくなったためとされている)。結局、彼は減刑され22年後に出所し、結婚しアメリカに渡り1933年に病死したとされる。

 これらの事例があるためか「死ななかった死刑囚は釈放される」という都市伝説が流布されている。実際に、生き残る為に首を鍛える死刑囚がいたという話がある。しかし、死刑執行された死刑囚の身体は30分間ぶら下げるのが慣例となっており、30分もぶら下げることで「確実に」死亡しているため、現在では蘇生する可能性は皆無である。

 第二次世界大戦後に死刑に失敗(生き返った)した死刑囚にアメリカ合衆国のウィリー・フランシス(1929年生まれ)がいる。彼は電気椅子に1946年に座ったが、歴史上初めて処刑に失敗した死刑囚として有名である。原因は電気回路の設置に不備があり致死量の電流が流れなかった為である。彼自身は冤罪を主張していたほか、二度も電気椅子にかけるのは残虐で異常な刑罰であると主張したが、いずれも受け入れられず、1947年に再度電気椅子に座らされた。なお、彼が処刑された年齢は18歳(犯行時15歳)であり、現在のアメリカ合衆国最高裁判所の判例で禁止された18歳以下の死刑執行である。


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ