ロミー・シュナイダー



ロミー・シュナイダー(Romy Schneider 本名:ローゼマリー・マグダレーナ・アルバッハ 1938年9月23日生)
 [オーストリア・女優]


 ウィーン出身。祖母・両親共に俳優で、15歳の時に母親の出演作でデビュー。映画『プリンセス・シシー』3部作(1955年〜1957年)でお転婆なバイエルン王国公女、のちのオーストリア皇后シシーを演じてアイドル的な人気を得る。1958年の『恋ひとすじに』で共演した当時無名のアラン・ドロンと恋に落ち婚約。その後、ハリウッドに進出し、第21回ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門)を受賞した『枢機卿』でゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)にノミネートされ、国際的に認められるようになった。しかし、アラン・ドロンとは1964年に別れる結果になってしまう。

 その他にもウディ・アレン共演作品やクロード・ソーテ監督作品などで活躍するが、私生活においては2度の結婚も離婚に終わる。前夫のハリー・マイエンは別れた後の1978年に自殺。1981年に映画『仮拘束』の撮影中に突然襲ってきた腹部の激痛のため右の腎臓の摘出手術を受け、入院。その間、14歳になる息子のダビッドはたまたま留守だった祖父母宅の垣根を飛び越えたとき、足をすべらせ、鉄製の鋭い角棒に身を貫いて無残な事故死を遂げた。それ以来、ロミーはパリで「呪われた女優」などと呼ばれた。

 離婚、病気、そして息子の悲惨な死という不幸が続き、心身ともにボロボロの状態だったが、ロミーにとってはカメラの前に立ってしゃにむに働くことだけが、自分に納得のいく唯一の治療だった。ダビッドの死後3ヶ月の1981年10月、映画『サン・スーシの女』の撮影がベルリンで開始された。撮影はパリ、ノルマンディと続き1981年12月末に終了した。1982年3月、ロミーはパリから西へ40km、イヴリーヌ県の小さな村ボワシー・サン・ザヴォワールの古い田舎屋敷を購入し、新居改修完了までの仮住まいをパリ7区バルベ・ド・ジュイ通りのアパルトマンに据える。『サン・スーシの女』はパリ地区で51万人、フランス全土で196万人の観客を動員した。次に出演する映画は、アラン・ドロンと共演のサスペンス映画になる予定で、1982年6月1日から撮影が開始されるはずであった。

 ロミーの1日は朝食前のビールに始まり、午前中はシャンパン、午後はウイスキー、夜はウォッカ、そして深夜には再びシャンパンという生活を送っていた。撮影中にもワインやシャンパンを飲むことも多かったという。1982年5月29日、パリの自宅アパートで変死体で発見された。寝室には空になったバルビツール催眠薬の容器、居間にはやはり空になったワインの瓶があった。検視の結果外傷はなく自然死と診断され、司法解剖は行われなかった。死因は睡眠薬の過剰服用が原因と言われる心不全、死亡推定時刻は朝5時。葬儀は6月2日、アラン・ドロンの手配でボワシー・サン・ザヴォワールの教会で行われ、フランスの多くの映画人が参列したが、ドイツからの参列者は身内以外は殆どなかったという。遺体は故国ドイツに戻ることなく、ボワシー・サン・ザヴォワールの墓地に息子ダビットと共に埋葬されている。墓碑には ロミーの本名「ローゼマリー・アルバッハ」と生年・没年月日のみが記され、息子の死を信じたがらなかったロミーへの心づかいか、息子ダビッドには没年月日が記されていない。ドロン自身はマスコミの騒ぎを避けるため葬儀を欠席し、6月14日に墓前で別れを告げた。1984年、フランス映画界の将来有望な若手女優に贈られるロミー・シュナイダー賞が創設された。

 1982年5月29日死去(享年43)


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