水久保澄子



水久保澄子(みずくぼすみこ 本名:荻野辰子 1916年10月10日生)
 [女優]


 東京生まれ。洗足高等女学校を家庭の事情で中退後、東京松竹楽劇部に入団。楽劇部に2年ほど在籍後、映画界入りを希望し松竹蒲田撮影所に採用される。それから間もなく成瀬巳喜男監督の『蝕める春』(1932年)に出演し三女役を好演し評価を高めた。次いで出演した島津保次郎監督の『嵐の中の処女』(1932年)でアイドル的な人気を獲得。以後も立て続けに『チョコレート・ガール』(1932年)、『君と別れて』(1933年)などに主演した。また小津安二郎監督の『非常線の女』(1933年)ではレコード店の店員・和子役を好演して、主演の田中絹代にひけを取らない存在感を示した。

 松竹で着実にキャリアを積み重ねていたが、1934年6月、突然日活に電撃移籍してしまう(この移籍には家庭内の事情が多分にあり、父親が金銭面で好条件を出してきた日活と本人に内緒で契約してしまった、という話もある)。日活移籍後は、阿部豊監督の『若夫婦試験別居』(1934年)に主演、滝口新太郎との共演『厳頭の処女』などハイペースで映画に出続けるが、1935年8月に『緑の地平線』の撮影中、家庭トラブルを理由に失踪した。数日後、親友の松竹女優の小桜葉子の家で見つかり連れ戻されたが、翌日に睡眠薬で自殺を図り、未遂に終わった。この事件はマスコミの格好の餌食となり、興味交じりのゴシップとして報道された。怒った日活は代役に星玲子を立てて、水久保を解雇する。

 その後、唐突にフィリピンからの医学留学生(と称する男)と結婚してしまう。この男性は松竹蒲田時代に知り合った人物である。この男は、南洋の王子様で大邸宅に住んでいるようなことを言っていたが、その実、フィリピンのその家は単なる掘っ建て小屋で、水久保は一年ともたずに逃げ出したが、その際、一児を残してきたと伝えられている。水久保はこの婚家で日本人というより、当時差別のひどかった中国人の女中とみなされ扱われていた。彼が自慢げに語っていたフィリピンの家と実際があまりにも違い、すぐに帰国。その後は各地のダンスホールで踊り子をやったり、吉本興業のショーに参加するなどしていた。神戸でダンサーとして舞台に出ていたのを最後に、太平洋戦争が始まる頃には消息不明となった。なお、戦時中満州で彼女を見かけたという一部情報がある。当時としては非常に現代的な顔つきで、アイドル女優の走りともいうべき存在であった。もし私生活のトラブルがなければ、戦後も日本映画を牽引したであろう。


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