ジミー・ホッファ



“ジミー”ジェームズ・リドル・ホッファ(James Riddle "Jimmy" Hoffa 1913年2月14日生)
 [アメリカ・労働組合指導者]


 インディアナ州で鉱山技師の息子として生まれる。7歳で父を失い、母と共に衣服の洗濯を手伝って生計を立てたという。10歳でデトロイトに移り、14歳で学校を中退。18歳のとき、勤務していた食料品チェーンで労働組合を結成。1933年、デトロイトの全米トラック運転組合(IBT)支部専従となる。その後、めきめきと実績を上げて出世し、1957年に委員長に就任。しかし、同年にアメリカ労働総同盟・産業別組合会議を除名されてしまう。これは、IBTが前任のデイヴ・ベックの時から基金横領や縁故人事などの腐敗体質が指摘されていたためである。

 IBTの権力は、マフィアの協力によって支えられていた。実際、ホッファらはラスベガスを莫大な年金基金の投資先とし、ここからマフィアとの緊密な関係が生まれた。つまり、マフィア関連のホテル、カジノ、あるいはモーテルの建設にIBT基金から融資を行い、最終的にその利益の一部がホッファらに還流されたのである。実際、スターダストやサーカス・サーカスなどの有名なカジノの多くはIBTの融資により建てられた。ホッファはマフィアと付き合い始めた頃、組合は自分が仕切っておりマフィアのことをコントロールできるものだと思っていたが、いつの間にか操り人形にされ、最後には必要とされなくなっていた。

 1962年夏に司法長官ロバート・ケネディはIBTについて追及を開始し、ホッファは最初の標的として狙われ公聴会で対決する。ロバート・ケネディと対決したとき、彼の父親のジョセフ・P・ケネディが禁酒法時代にマフィアと手を組んで酒の密売で儲けたことを公然と非難した。この際、ホッファはロバート・ケネディを殺害しようと本気で考えていたという。

 その後マネーローンダリングに関与したとして、懲役13年の判決を受けて1967年3月7日にペンシルベニア州ルイスバーグの連邦刑務所に収監され、組合の地位と暗黒街での権力も失う。1971年に出所したが、1980年まで組合での活動を禁止するという条件が付いていたため、憲法違反として法廷闘争を開始。一方、復権を狙って後任のフランク・フィッツシモンズと熾烈な抗争を繰り広げる。この頃にはホッファはマフィアにとって利用価値がない邪魔者になっていた。

 両者の抗争が激化していた1975年7月30日、デトロイトの自宅を出たまま行方不明となる。愛車はレストランの駐車場に放置されていた。マフィアの幹部に会う予定だったといわれ、マフィアに暗殺されたという説が有力である。失踪から7年経った1982年、69歳の時に死亡認定されたが、現在に至るまで捜索が続けられている。それだけ、彼の失踪は社会的に大きな事件であった。生きていれば2010年時点で90歳を超える老人である。

 最期には諸説ある。マフィアの間で一時期広まった噂によれば、車で拉致されたホッファはクラーレ(南アメリカの先住民が狩猟に用いる毒物)を飲まされて殺害され、死体は車ごと圧縮機械に放り込まれたといい、「ホッファは誰かの車のボディの一部になった」のだという。その他にも焼いて灰にされたとか、切り刻まれて沼に捨てられたという説もある。


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