アメリア・イアハート



アメリア・イアハート(Amelia Mary Earhart 1897年7月24日生)
 [アメリカ・飛行士]


 アメリカのカンザス州アチソンでドイツ系の家庭に生まれる。第一次世界大戦中はカナダのアメリカ陸軍病院で看護助手として働いた。

 1921年にカリフォルニア州ロサンゼルスで、ネタ・スヌークから飛行訓練を受け、最初の飛行機を買った。家族問題により、彼女は1924年に飛行機を売り、東部に戻りソーシャル・ワーカーとして働いた。

 1928年4月のある午後、彼女は仕事中に一本の電話を受けた。電話の主は通話の終わりに彼女に尋ねた。「大西洋を飛びたいと思いますか」彼女は政治評論家で出版者であったジョージ・プットナムと会い、パイロットのウィルマー・スタールズと副操縦士兼エンジニアのルイス・ゴードンのチームに共同パイロットとして加わるように依頼された。

 チームは1928年6月17日に、ニューファンドランドのトレパシー湾を出発し、およそ21時間後にウェールズのバリー・ポートに到着した。彼らはサウザンプトンから客船でアメリカへ戻った時、ニューヨークで紙吹雪の舞うパレードと、カルビン・クーリッジ大統領によって開催されたホワイトハウスのレセプションで歓迎を受けた。

 その時以来、飛行機で空を飛ぶことはイアハートの生活の一部となった。彼女とプットナムは大西洋横断の準備の間に友情を深め、彼らは1931年2月7日に結婚した。

 1932年5月20日にイアハートはチャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と同じルートを、カナダのニューファンドランドのグレース湾から出発した。

 しかしながら強い北風と氷および機械的な問題で、アイルランドのロンドンデリー近くの牧場に着陸せざるを得なかった。イアハートは大西洋単独横断飛行の成功で、議会からの空軍殊勲十字章、フランス政府からのレジオン・ド・ヌール勲章およびハーバート・フーヴァー大統領からの米国地理学協会のゴールドメダルを受け取った。1935年1月11日には、アメリカ領のハワイからカリフォルニア州までの単独飛行にも成功した。

 1937年5月21日に世界一周飛行に向かって、ナビゲータのフレッド・ヌーナンとオークランドを飛び立ち、太平洋を東周りに飛行し、6月30日にニューギニアのラエまで到着した。

 7月2日に、日本の委任統治領に隣接したアメリカ領の無人島であるハウランド島をめざして離陸した後、消息を絶った。

 アメリカ政府は、イアハートの捜索に400万ドルを費やした。捜索隊はアメリカ海軍および沿岸警備隊によって組織されて、当時最も高価で最も集中的である航空および海中探索を行った。

 多くの研究者が、イアハートとヌーナンの飛行機は燃料を使い果たしたが不時着水した、もしくは墜落したと信じている。また遭難当時は「アメリカ軍の要請を受けて、カロリン諸島やマーシャル諸島などの、日本の委任統治領における日本軍の活動を探るべく飛行した揚句、カロリン諸島に駐留する日本軍によって撃墜され捕らえられた」という話が、まことしやかに唱えられていたこともある。また、「日本軍に捕らわれた後にサイパンを経由して東京に移送され、第二次世界大戦中に渡り拘留され、終戦直前に処刑された」という説まで唱えられたこともあった。

 また、キリバス領のニクマロロ島ではキャンプの跡や漂流者の遺骨が1940年に、コンパクト用とみられるガラス片などが2007年に見つかっているため、イアハート自身が同島に漂着し死亡するまで島で生活していたという説もあるが、遺骨などが失われているため確証はない。


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