風船おじさん



風船おじさん(ふうせんおじさん 本名:鈴木嘉和 1940年生)
 [ピアノ調律師]


 東京都生まれ。国立音楽大学附属高等学校 を卒業後、ヤマハの契約社員となり、東京都小金井市でピアノ調律師を営む。1984年、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノカラオケというピアノの録音テープの販売を開始。銀座ではパブレストランや麻雀荘などを経営していたが、いずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。借金苦に陥る。ビニール風船26個を付けたゴンドラ(飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたという。

 1992年4月17日には、風船で飛び立ち、民家の屋根に不時着する事故を起こした。府中署防犯課の警察官の制止を聞かずに東京都府中市の多摩川河川敷から九十九里浜を目指してヘリウム風船で飛び立った。鈴木が座った椅子に5メートルと2.5メートルの風船2個を直接くくりつけて飛行していたが、おもりの15kgの砂袋2個が外れて急上昇したことから、5メートルの風船を外したところ高度が下がり、午後1時40分頃に出発地点から24キロメートル離れた東京都大田区大森西七丁目の民家の屋根に不時着した。しかし左手に怪我をした程度で済み、駆けつけた蒲田署員に謝罪しつつも、成功すれば次はハワイを目指す予定だったと語り、改めて再挑戦することを誓っていた。一方、民家は瓦が壊れ、テレビアンテナが曲がる被害を受けたが、鈴木からは弁償も挨拶もなかったという。この初飛行の後、NHKのラジオ番組にゲスト出演し、その際、風船による太平洋横断計画について語っている。しかし、この4月の実験飛行の失敗によって、マスコミ各社は鈴木に距離を置くようになっていったり、風船のヘリウムガスを売ってもらえなくなった。

 1992年11月23日、当時52歳の鈴木が、ヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」で試験飛行を行うことになった。鈴木に電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー取材班、そして鈴木の支持者らが琵琶湖湖畔に集まった。この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだった。しかし、120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃「行ってきます」と言って、鈴木はファンタジー号を係留していたロープを外した。「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎の瓶を地上に落とした鈴木は周囲の制止を振り切って、琵琶湖湖畔からアメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した。翌日は携帯電話で連絡が取れたものの、2日後にSOS信号が発信され海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800m海上で飛行中のファンタジー号を確認したが、鈴木は、捜索機に向かって手を振ったり座り込んだりして、SOS信号を止めた。ファンタジー号の高度は2500メートルで高いときには、4000メートルに達した。約3時間の監視をして、ファンタジー号は雲の間に消えたため、捜索機は追跡を打ち切った。以後、SOS信号は確認されておらず、鈴木の家族から捜索願が出されたことを受け、12月2日に海上保安庁はファンタジー号が到着する可能性のあるアメリカ合衆国とカナダとロシアに救難要請を出した。

 鈴木の計算では、ファンタジー号は、高度1万メートルに達すれば、ジェット気流に乗って、40時間でアメリカに到着するはずだったが、以後の消息不明である。当時の気象大学校の教頭である池田学は『朝日新聞』の取材に、鈴木の生存は難しいだろうと答えている。ファンタジー号のビニール風船の素材が塩化ビニールならば、1日に約10%の割合でガスが抜け、海に着水している可能性が指摘されている。冒険の動機は、同志社大学教授の三輪茂雄の鳴き砂保護に賛同して、鳴き砂保護を訴えるためだったと言われる。そんな鈴木に三輪は無線免許を取ることと、鳴き砂のある仁摩町から飛ばなければ意味がないと諭していたが、それにも関わらず、琵琶湖湖畔から旅立たれ、裏切られた思いだとマスコミに感想を述べている。

 ファンタジー号は直径6mのビニール風船を6個、直径3mの風船を20個装備。ゴンドラ部分は海上に着水した時の事を考慮し、浮力の高い檜を使用。ゴンドラ外形寸法は約2m四方で深さ約1m。桶造りでは東京江戸川区の名人と言われているものの、飛行船のゴンドラは専門でない桶職人に製作を依頼。風船のガスが徐々に抜けて浮力が落ちるため、飛行時に徐々に捨て機体の浮上を安定させる重り(バラスト)を用意していた。重りの中身は、厳寒でも凍らない焼酎を使用していた。ただし焼酎は浮力不足のため、琵琶湖畔からの出発の際に200本全てが下ろされた。積載物は、酸素ボンベとマスク、1週間分の食料、緯度経度測定器、高度計、速度計、海難救助信号機、パラシュート、レーダー反射板、携帯電話、地図、成層圏の零下60度以下の気温に耐える為の防寒服、ヘルメットに紫外線防止サングラス等であった。出発時の防寒具は、スキーウェアと毛布で、無線免許は持っていなかったため、無線機は積まれていなかった。搭載していた高度計についても、鈴木は使い方を理解していなかったという。食糧については、鈴木は絶食の訓練をしていたと称しており、スナック菓子のみだった。さらにテレビカメラと無線緊急発信装置も搭載されていた。

 ファンタジー号の出発直後から、民放テレビ局のワイドショー番組では、トップニュース扱いで毎日のように報道。「風船おじさん」のニックネームが定着するきっかけを作った。しかし、マスメディアの関心が他に移ったことと、ファンタジー号自体の話題が尽きたこともあり、ファンタジー号に関する報道は沈静化した。週刊誌では、同年12月17日号の『週刊文春』が、密着して出発時の映像も撮影していたフジテレビの姿勢を「鈴木を煽ったのではないか」と取り上げ、同時に計画を無謀だと指摘。フジテレビは『週刊文春』の取材に対しタイアップしておらず、また鈴木は無線免許を取得して4月以降に出発すると語っていたため、11月23日に飛んでしまうとは思わなかったと回答している。

 その後、残された妻は会社の共同経営者であり、家が抵当に入っていることもあり、借金は残された妻が払い続けている(2006年時点)。1999年の取材によれば、2年に1度の捜索願を家族が更新しており、鈴木は戸籍上は生きていることになっているという。ただその時点で失踪宣告の手続きをしようかと思うようになったとも語っている。「風船おじさん」については、その後も話題になることがある。例えば、タレント・映画監督のビートたけしは、野球選手のイチローが国民栄誉賞を辞退した際に、冒険家だった風船おじさんに国民栄誉賞をあげればいいと語ったことがある。1995年にはレピッシュがアルバム「ポルノポルノ」に「風船おじさん」という曲を収録。ドン・キホーテ的生き方を敬意とともに肯定する内容となっている。1997年4月には、劇作家の山崎哲の作・演出で鈴木をモデルにした舞台『風船おじさん』が新宿のシアタートップスで上演された。蟹江敬三の一人芝居である。ちなみに、遺体がアラスカで発見されたというニュースがネット上に存在しているが、事実無根のデマである。


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