桂三木助(4代目)



4代目桂三木助(かつらみきすけ 本名:小林盛夫 1957年3月29日生)
 [落語家]


 父・3代目桂三木助の晩年に出生。唯一の男児となった。父が5代目柳家小さんと義兄弟の杯を交わすほどの大親友であったので、誰もが認める実力者であった小さんのようになれとの願いをこめて、小さんの本名と同じ「盛夫」と命名された。

 父とは3歳で死別し、以降は母と1つ年上の姉たちのもとで育つ。大学在学中に落語家になることを決意。父はすでに亡くなっていたので、小さんへの入門となった。

 新入り落語家である前座は、師匠宅における労働(家事・掃除など)の義務があり、当然それは早朝から深夜に及ぶものである。しかし、三木助はようやく昼過ぎに師匠宅に車で乗り付けるという重役出勤ぶりで、それもただ「出勤」しただけで、労働らしきものは全く行わなかった。師匠小さんも特に注意せず、野放しにさせた。

 御曹司、一流大学出身、寄席に外車で乗り付け、隣に女性をはべらせる…というイメージを隠さずにむしろ強調し、「落語界のシティーボーイ」とキャッチフレーズもついた。マスコミの注目を浴び、春風亭小朝と共に次世代のホープとして注目された。また、俳優やテレビレポーターなどとしても活躍した。

 1984年度のNHK新人落語コンクールに出演。『湯屋番』を演じ、これまでにない新しい演出が注目を集め、優秀賞を受賞する。

 翌年に26人抜きで真打に昇進して4代目桂三木助を襲名した後は、タレントとしての仕事をほぼなくし、落語家の仕事を中心にした。演芸番組を除いては自然とテレビから遠ざかり落語に専念するようになる。その理由として、胃の摘出によって体力的に衰えを自覚したことにあることをインタビューで述べている。

 落語に対する姿勢が変わり、春風亭小朝、林家こぶ平、春風亭昇太らとともに江戸落語の若手発掘・自身も含めた中堅世代のスキルアップのために、数々の寄席や落語関連のイベントで奔走することとなる。

 1994年の9月には「三木助ひとり会スペシャル」という昼夜の独演会を開催し、昼の部には立川志の輔と昇太、夜の部には桂小米朝と立川談志を招くなど、主役である自分が食われかねないゲストとも共演した。父がかつて芸術祭賞を受賞した芸術祭に対しても意欲を示し、1996年は不参加であったものの、1997年には演芸部門優秀賞を受賞した。さらに吉川潮の協力のもと、父の十八番であった『芝浜』も習得しようと励んでいた。

 最初に芸術祭に参加を申し込んだのは1996年だが、公演の前々日に事故にあって怪我をしたために公演を中止した。その際にマスコミが取り上げ、注目の的になった。三木助本人は「夜中に飼い猫の餌を買いに行った帰りにピカっと光る物体を見たとたん、何かとぶつかって気を失った」と証言したが、周囲からは「彼に冷たくされた女性が待ち伏せして襲った」説や「参加公演直前になって自信をなくして体調がおかしくなった」説などが浮上した。結局、この件に関しては、真相が明らかにされることはなかった。

 それ以降も三木助は目立つ言動をとるようになり、寄席も遅刻し、無断で欠席するようになった。たとえ寄席に出ても楽屋でも身だしなみにこだわらなくなり、寄席を出てから10時間近くも夜の街を徘徊した末に駅でコートを脱ぎ捨て、足を腫らして病院に運び込まれることもあった。また、周囲の人々に、父親の年まで生きられずに30代で亡くなるかもしれないことや、亡くなったらかつて一緒に遊び回っていたが病死したり自殺したり変死した仲間と再会出来るということを口にするようになった。

 かねてから「三木助」の名に重圧を感じており、うつ病にかかっていたなどの憶測が流れたが、このような言動の背景には、胃の手術によって体に変調が表れやすくなったことや、長年の付き合いのあった友人に裏切られて金銭問題を抱えたことがある。

 2001年1月2日に開催された5代目小さんの誕生パーティを無断で欠席した三木助だったが、その翌日に自宅で首を吊っている姿が発見された。病院に救急搬送されたが死亡。この時、遺書には「か 自分でも整理がつかないと同時に私の力のなさを痛感する」と書かれており、文字はかなり乱れていたという。冒頭の「か」の意味は明らかにされていない。

 2001年1月3日死去(享年43)


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