ディペンドラ



ディペンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴ(Dipendra Bir Bikram Shah Dev 1971年6月27日生)
 [第11代ネパール国王]


 第10代ネパール国王ビレンドラの長男・ディペンドラ王太子は2001年6月1日、王宮内で父ビレンドラ国王を始め王族9人を銃で殺害し、その後自殺を図ったとされる。ディペンドラ王太子は意識不明のまま即位したが、3日後に死亡した。

 国王の末弟・ディレンドラ王子の娘婿で、現場に居たシャヒ大佐の証言を元として、政府の調査委員会が発表したところによると、かねてよりディペンドラ王太子は結婚相手であったデブヤニ・ラナについて国王や母・アイシュワリャ王妃らに反対されていた。特に王妃は、ラナ家と敵対関係にある家系の出身であったため、強く反対していたという。この日開かれた王族の晩餐会でこの問題が話し合われ、結婚に反対する国王と王妃は、王太子の王位継承権を剥奪するとまで発言した。部屋に戻った王太子は再び会場に現れると銃を乱射、自身も直後に銃で自殺を図った。国王夫妻、シュルティ王女、ニラジャン王子、王の妹や弟ら9人が射殺されたとされる。

 しかし、この事件はあまりにも突発的な上、公式発表および政府のその後の対応においていくつかの不可解な点があり疑惑がもたれている。

 王族が全員集合していたのにビレンドラの弟・ギャネンドラだけが欠席していたこと。
 事件発生当時、ギャネンドラは地方視察の途中で、ポカラの別荘に滞在していた。
 出席していた王族の中でもギャネンドラの家族が全員生き残ったこと。
 息子のパラス王子は無傷、妻のコマル妃も足を負傷したのみ。シャヒ大佐の証言によれば、パラス王子は女性達を背後にかばって「英雄的働き」をしたという。
 周囲を警護していた国軍(入室は許可されていなかったという)が物音に気づかなかったという点。
 ディペンドラ王太子の不自然な自殺の仕方(銃による自殺でとされるが、弾丸が後部から入っており実行しようとすると無理な体勢をとらなければならない)。
 通常、王族や国家元首が死亡すると外交的にも国内的にも大々的な式典がおこなわれるのが通例だが、本事件後はそういった儀礼が一切なく、また国民にも非公開のうちに事件後数日で行われた。

 事件の真相については、「親印派の王弟ギャネンドラがアメリカ・インドの後押しを受けて、親中派のビレンドラ国王・ディペンドラ王太子らを抹殺した宮廷クーデター」との説がある。ただしギャネンドラは親政開始後、インド敵視政策、中華人民共和国からの武器購入、チベット独立派の弾圧などを行った。

 また、現在に至るまで情報が錯綜しており、例えばアメリカのディスカバリーチャンネルで放送された「Zero Hour」シリーズの「ネパール王室の惨劇」ではディペンドラ王太子の自殺方法が上記のように頭の後部ではなく「王太子は右利きであるが、銃弾は左から頭を打ちぬいていた」とナレーションされている。

 司法解剖が行われなかったと言う点もあわせ、様々な噂が流れているため、真相の究明は困難である。

 その後、数少ない生存者であるギャネンドラが王位についたが、いつまでたっても政党間でいがみ合いらちのあかない議会政治に失望した国王は、毛沢東派勢力の制圧が進まないことを理由に非常事態宣言を発令して議会を停止し内閣を側近でかためるなど専制的な政策をとったが、国内外からの強い反発を招き、2006年4月には大規模な民主化運動が起こった。

 国王の政治的特権はすべて剥奪され、元首ですらなくなった。さらに2008年5月28日、制憲議会で共和制が議決され、ギャネンドラは退位し、王宮を去ることになった。しかしネパールの新政府は現在でも議会において主義主張が相容れない状態で政党が乱立している状態であり、政情は王政廃止後も不安定であり、この事件がネパールの政治に与えた影響は甚大である。

 2001年6月4日死去(享年29)


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