尾崎豊



尾崎豊(おざきゆたか 1965年11月29日生)
 [シンガーソングライター]


 1965年、東京都練馬区で二人兄弟の次男として誕生。埼玉県の朝霞市に新居を構えた為、1976年8月12日に埼玉県朝霞市へ転居。父親が防衛庁職員であったため、いずれも陸上自衛隊練馬駐屯地と朝霞駐屯地の近くであった。母親は保険の外交員で暮らしは決して裕福ではなかったが、教育熱心な家庭であった。小学校を卒業すると、本人の強い希望により練馬東中学校へ越境入学する。生徒会副会長を務めたが、喫煙により停学処分を受ける。高校は、第一志望であった埼玉県内の私学の最難関である慶應義塾志木高等学校には不合格となったものの、青山学院高等部に合格。さらに、1月15日に受けた陸上自衛隊少年工科学校の1次試験に20倍の競争率を突破して合格した。しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、既に合格していた青山学院高等部に進学することになった。高校在学中にも喫煙で停学、更に同日の夜に渋谷で同級生達と飲酒した挙句、大学生のグループとパトカーが出動するほど乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を受ける。これがファーストアルバムを制作する契機となる。のちに停学処分は解けたものの出席日数が足りず留年となり、自主退学。

 1983年、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でデビュー。当初の評価は完全な口コミであったため、ファーストアルバムである『十七歳の地図』は3千枚を売るのも大変で、当初はセールス的には成功しなかった。しかし、その後徐々に人気が出て4枚目のシングル「卒業」の大ヒットにより、その地位を確立した。セールスが伸び悩んだのとは逆に、音楽評論家からは大絶賛され、音楽雑誌では早くも特集が組まれた。中には10ページ以上尾崎の記事や写真で組まれた特集もあった。尾崎自身のイメージを保つ為に、10代の頃の写真は全て白黒写真で掲載された。特に10代の頃は大人への反抗や反体制をテーマにした歌を多く歌い、新聞などで「10代の教祖」とも呼ばれたが、本人はこうした呼称を嫌っていたとも言われている。だが、校内暴力が横行していた時代と相まって一種の社会現象ともなる。

 1992年4月25日、早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。

 尾崎の死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付けのオリコンアルバムチャートでは、TOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『放熱への証』、4位『回帰線』、5位『十七歳の地図』、6位『LAST TEENAGE APPEARANCE』、7位『壊れた扉から』、9位『誕生』。なお、TOP10外に14位『街路樹』がある)。また、同年6月16、17日の初の日本武道館ライブを含む全国コンサートツアーが予定されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、チケットを手元に置くファンが多かったためか、チケットの払い戻しに来る人はほとんどなかった。

 尾崎に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用(オーバードーズ、薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。しかし、尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もある。覚醒剤を飲まされて殺されたという説、尾崎の妻の陰謀説、暴力団や政治家がらみ説など。ただ警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。そのため、尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。

 7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。だが、はっきりとしたことがわからないため、今も他殺の疑惑が囁かれている。

 2011年11月、文藝春秋に「遺書」全文が公開された。文藝春秋の記事はジャーナリストの加賀孝英が執筆した。「遺書」と言われる文書の存在は1994年の月刊誌で報じられたが、全文掲載は初めてとなる。加賀が同年に入手していたが、尾崎の妻から「長男の尾崎裕哉が物心つくまで公表しないでほしい」と要請され、全文公開を控えていた。裕哉が成人してアーティストとしてCMで歌声を披露したことや、上述の「尾崎ハウス」が解体されたことを契機として、公開に至ったとしている。一方、1994年に本来なら未公開で有るはずの「死体検案書」が一部のマスコミに流出して他殺説が噂され、また、当時父が署名を集め警察に再捜査を要請したなどの経緯も有る事から、父は遺書の公開に付いても尾崎の遺書で有る事に疑問を挟み「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺じゃない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺で有る事を否定した。

 1992年4月25日死去(享年26)


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