ヴィクトル・スタルヒン



ヴィクトル・スタルヒン(Victor Starffin 1916年5月1日生)
 [プロ野球選手]


 ロシア生まれ。ロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため革命政府から迫害され、1925年、一家で日本に亡命。日本では無国籍となる。

 旧制旭川中学校に入学し当時から剛速球投手として鳴らした。ただ、全国中等学校優勝野球大会の北海道大会では2年連続で決勝に進むも、味方のエラー等により惜敗しており、夏の甲子園にはあと一歩届かなかった。

 1936年、東京巨人軍に入団。同年7月3日の大東京戦で救援登板し、3イニングを無失点に押さえて巨人の公式戦初勝利に貢献した。

 1937年秋より沢村栄治に替わって、エースに台頭する。1938年秋から1943年まで続く6連覇に大きく貢献した。1937年7月3日にノーヒットノーラン達成。1939年に日本記録となるシーズン42勝をあげ最多勝を獲得、最高殊勲選手 (MVP) に輝いた。同年、プロ野球初の通算100勝を達成している。

 1939年には、日ソ間で大規模な軍事衝突が起こるなど、日本人のロシア人に対する感情が悪化したため、1940年に「須田博」に改名。

 戦後の1946年、元巨人監督で当時パシフィック監督の藤本定義と再会しパシフィックに復帰。同年10月に史上初の通算200勝を達成。1948年金星スターズ、1954年に高橋ユニオンズに移籍した。1955年9月4日対大映戦で史上初の通算300勝を達成。同年現役引退。

 1957年1月12日午後10時40分頃、都内で行われた中学校の同窓会に出席する為に自宅のある港区南青山から自動車を運転。世田谷区三宿にある国道246号線上に当時敷設されていた路面電車の東急玉川線三宿駅付近において前の車を追い越そうとして渋谷発二子玉川園行電車と衝突し即死。

 中学時代の友人たちの証言によれば、同窓会の会場とは逆方向へ車を走らせており、同乗していた同窓生を車から降ろし電車で行くように指示しているなどしており、いささか不可解な死として現代に伝わる。その直前には港区内で友人が経営するボウリング場の開場式典に出席して飲酒しており、泥酔状態ではなかったものの飲酒運転であったという。また飛込みによる自殺説も有る。秋田県横手市雄物川町にある、妻の実家である崇念寺に葬られた。亡命から最期まで無国籍であった。

 1957年1月12日死去(享年40)


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