伊丹十三



伊丹十三(いたみじゅうぞう 本名:池内岳彦 1933年5月15日生)
 [映画監督・俳優・エッセイスト]


 京都府生まれ。第二次世界大戦末期、京都師範付属国民学校に設けられた、科学者養成のための英才集団特別科学学級で教育を受けた。当時としては珍しく、戦時中に英語教育を実践していたと云われる。中学生の時に父親は死去する。その後、愛媛県松山市へ移ったが、大学受験に失敗したため、東京へ行き新東宝編集部を経て商業デザイナーとなる。

 舞台芸術学院に学び、26歳の時大映に入社、俳優となる。1960年に日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子と最初の結婚をする。1961年、大映を退社。その後『北京の55日』(1963年)、『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる。映画とテレビドラマで存在感のある脇役として活躍した。『家族ゲーム』(1983年)、『細雪』(1983年)では、キネマ旬報賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞を受賞している。

 1969年に女優の宮本信子と再婚し、宮本との間に子供を二人もうける。

 1984年、51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価をうける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテイメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」というブランドを築く事に成功する。

 1992年、特に『ミンボーの女』では、ゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザをヒーローとして扱い礼賛していた。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負うが、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。警察は現場の車より山口組(稲川組)系後藤組の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。

 1993年6月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫・嫌がらせを受ける事となったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。

 1997年12月20日、写真週刊誌「フラッシュ」により不倫疑惑が取り沙汰されたことに対して「死をもって潔白を証明する」との遺書を残し、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンションから投身自殺を遂げた。しかしながら、他殺とされる見解も多い。それは不倫疑惑について週刊誌の記者からインタビューを受けた際に「妻に聞いてみればいいよ」と笑いながら、全く意に介さず「いつものことだから」のように軽口を叩いていた伊丹が突然それを「死を以って証明する」と自殺するのはあまりにも不自然すぎるからであった。伊丹十三の「自殺」を知った妻の宮本信子は立ち上がれないほど憔悴しきってしまったという。

 また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物は、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」と話し自殺を否定している。伊丹は、民事介入暴力を描いた『ミンボーの女』公開直後に、怒った暴力団の男たちに襲われて重傷を負い、さらにその入院生活を元に製作した『大病人』公開時には自称右翼の男によってスクリーンを切り裂かれる事件が起こっている。これらの背景を元にした他殺説として、『マルタイの女』に怒った暴力団や右翼団体に謀殺または自殺に追い詰められたとする見方が大勢を占める。

 1997年12月20日死去(享年64)





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